141ばんどうろ

消費者です。

花譜 2nd ONE-MAN LIVE「不可解弐Q1」について書きました。

短い夏も終わり秋の深まる10月、花譜 2nd ONE-MAN LIVE「不可解弐Q1」が行われた。

昨今の情勢により完全にオンラインで行われることとなった今ライブだが、場所もそのため前回のZepp DiverCity Tokyoのような現実の設備ではなくVIRTUAL LIVE HOUSE「PANDORA」と完全にオンラインなヴァーチャル方面に振り切った会場となった。

PANDORAの場所は"地球では無い何処か"、そして座標も"不明"とある。

ここで少し英文の方の"Somewhere not on earth"に注目したい。

我々ヴァーチャル側ではない人間が存在する"地球"を表現したいのであれば"the earth"となり、地球を惑星のひとつとして扱って表現したいのであれば"Earth"となるのが妥当だろう。だがしかし"Somewhere not on earth"とあるように"on earth"なのだ。"on earth"は地球というよりも大地、地面、地上、転じてあの世(天国,heaven)の対である"この世"とも訳せる。

つまりPANDORAの地球では無い何処かとは直接的な言及こそ無いものの、あの世を意味しているのでないかと考えた。

生き死にが歌詞やテーマに多少なり存在する花譜の世界観において、地球上でない何処か(別の惑星)なのか、あの世なのか。この差は重要なのではと少し思うわけだ。*1

 

話をライブの方に戻したい。

ヴァーチャルな者達のライブではモニター等に映し出されるヴァーチャルな演者とそれを観るリアルな肉体を持つものという構図は不変でありある種この世の摂理とも言える。

ファーストライブの「不可解」の花譜もその摂理の中にあり、現実(リアル)の会場に生身の人間のバックバンドにモニターに投影されるヴァーチャルな演者という構図自体は悪く言えば在り来たりでこれまでの流れに沿ったものになっていた。

youtu.be

 

その法則を打ち破ったのが「不可解弐Q1」だ。

オンラインライブのため観客こそ会場には居ないが舞台装置は入れ変わり、生身の人間のバックバンドだったものが今回はモノリス状のモニターに収められ、花譜はその会場に実際に立っているという構図になった。

我々が存在している地球にある現実のモノは花譜の地球ではヴァーチャルへ、対してヴァーチャルは現実へいうように、現実のものはヴァーチャルにならざるを得ないかつ、ヴァーチャルな花譜が現実として存在できるのがPANDORAということなのだ。

そしてこれはもはやオンラインライブであるがために観客が居ないのではなく、"地球では無い何処か"であるがゆえに、我々が不可侵であるためにその場に存在できないと取れるのだ。

 

花譜の方も3Dモデルが進化しており会場もそうだが手間や人月、そしてお金がかかっているなとひと目で分かる。わからされる。

 

例を挙げると隼衣装のライトが当たったところが黒光りしているところやフードの中に収まるおさげの動き、目にかかる髪の影などから感じられる3Dモデルのクオリティの高さ。その上に全ての歌唱用形態に加えて神椿の花譜の以外の魔女ら達のモデル(そしてキズナアイもか?)も全て刷新されており、それはもう1本2本3本では済まされない額が発生しているだろう。

かかっている金額が全てではないが神椿の本気度を感じられる要素の一つになっている。

 

だが一つ、私には悩みのタネがある。ライブが現在進行形で行われているかどうかだ。そこが毎回気になってしまうのだ。

現実に存在している人間がパフォーマンスする際はやはりその場に"居る"ので口パクでない限りはその場で行っていることは明白だ。ヴァーチャルではそうもいかず録画に逃げることもできてしまうといえばできてしまう。

これまで足を運んだヴァーチャルユーチューバーのライブの中で最も評価しているライブが「Kizuna AI 1st Live “hello, world”」なのは変わっていなかった。が、それはやはりクオリティの高さから来たものであったり、ライブのライブとしてのライブ感がある。つまりはそこに"居て"その場で"演っている"という個人的には大事な要素が満たされていた。キズナアイはコールアンドレスポンスや観客のアブラハムにツッコミを入れていた。

録画ではないんですよという安心感がどうしても欲しくなってしまうのだ。何処かで疑の念を持ってしまうと私は点でダメになってしまう。

しかし、今回は不思議とその疑念は生まれなかった。そう感じさせる余地の無いほどの怒涛とも呼べるクオリティだったためだ。それに100%の確証こそ無いものの録画とは思っていないし彼女は3時間やりきったと思っているしそれを保証・証明する必要もない。

一過性のやれば終わり、観れば終わり、のモノではなく、何度も何度も繰り返し観たい。反芻したい"作品"に昇華された。もはや芸術作品とも呼べる仕上がりで思い返すだけでもため息が止まらなくなる。

 

セットリストについても私は花譜楽曲の中では『未確認少女進行形』と『私論理』と『魔法 feat.理芽』の3曲が特にお気入りなのだが、その3曲全部やってくれるのは嬉しすぎて涙モノだろう。

 

これまで花譜&理芽のデュオ楽曲の『まほう』のタイトルを"魔法"だと思っていた(というかアイスクリームライブでは漢字でしたよね?)が漢字でもカタカナでもなくひらがな表記だったことを初めて知ったが、それはともかくとして2回目の披露となった『まほう』を聴くことができて感無量だ。

ライブでの花譜は歌ったあとにその曲に対する思いを述べる。もはや名物となっていた花譜の10代の女の子らしいMCだが最初こそは初々しさもあり微笑ましいMCだったが回を重ねるごとに着実に語彙が向上しており、なんというか人間の成長や、時間の経過が、「不可解弐Q1」ではそれを色濃く感じた。

 

「共感できないけど憧れの曲」などひとつひとつの曲に対する想いが10代の彼女の語彙によって語られるが、自分が同世代だったときにそこまで曲に対して考えていたかと言えば否である。さらに10代の頃など誰しも思い悩み、葛藤するものだが、花譜自身の口からも胸の内の葛藤や悩みが独白される。そんな自分の想いを自分の言葉で表現できることや曲への真摯な態度が彼女に尊敬の念を抱かせている。

時間の経過と共に無くなっていくキラキラやワクワクといった気持ちを彼女の歌や歌への想いから自分は供給してもらっている。

これは明日も明後日もその先も貰い続けるだろうし、私は永遠にアーティスト花譜を好きでいたい。たとえ青い目、桜色の髪でなくなったとしてもだ。

 

音楽は魔法で救済で自由だと言うことや歌詞から来る言葉のパワーを再び噛みしめることになった「不可解弐Q1」は間違いなく一番異質で一番新しいエンターテイメントだろう。

 

生死(生きろ死ぬな)をテーマに掲げている世界観において、明日が来るかわからないという不確かさ、明日なにが起きるかわからないという不確かさがある中で理由もなく生きろとだけ言い続けるのだけでは無責任にも感じられるわけだ。だが神椿スタジオは次々と新しいコンテンツを提供し続けている。コンテンツが魅力的に提供され続ける限りは生き続けたいと感じられ、それが理由にもなり得るだろう。

前回の「不可解」より引き続き行われた御伽噺パートも世界観をより広げ花譜のライブならではの演出、醍醐味になっている。それを拡張した映像化もあり、その世界観の比率を多くしたミュージカルであったり短(長)編アニメーションへの期待が止まらない。

神椿スタジオは生きる理由を作るのが上手い。

 

続きの物語「不可解弐Q2」も生きて観測できることを切に願う。

 

www.zan-live.com

 

*1:と言ってもその先になにか考えがあるかと問われたら無いんだなこれが。